巴里阿房旅行記3

パリに来て今日で4日目だ。

毎日が光と陰の矢の如く過ぎ去っていく。

間違いなく東京と流れている時間の速度が違う。

街の速度は東京よりも緩い。

しかし旅人の私には毎日が新鮮なのでいつもよりギア2つ分くらい加速して日々が過ぎていく。

もし東京と同じ速度で街が廻っていたら、私の目は回っていただろう。

ただその速度にもだいぶ慣れて自分のペースで過ごせるようになってきた。

今日はいつもより少し早く(とはいっても朝8時過ぎだが)起きたので、歯を磨き、顔を洗って、外へ走りに行く。

なぜパリまで来てジョグをするのかは自分でもよく分からないが、普段から走ることと密接に結びついた生活をしていると走らないのはなんだか落ち着かないのだ。

例えは悪いが麻薬を手放せないジャンキーと一緒である。

ナイキのランニングシャツ、ショートパンツ、エア入りのランニングシューズという格好で東駅を越えてパリの北へと抜けていくとルールク運河という細い川沿いの道へと出る。

この道をさらに北へと進んでいくと右手にラ・ヴィレットという小綺麗な公園が見えてくる。

周辺には新興住宅街の高層マンションとシネコンなどがあり、横浜やお台場に雰囲気が少し似ている。

この川沿いの道は絶好のランニングコースになっていて私の他にも何人もジョガーがいる。

私も混じって黙々と走る。

日本で普段走っているよりも少しだけ遅く、風景を見渡せるくらいのスピードで。

流れる風景、街の音、ランニングシューズがコンクリートを擦る音、自分の息づかい。

全てが一つのリズムになって私の体内で響く。

走ることで街と調和していく。

それだけでなんだか嬉しい。

ゆるゆるとマイペースで走り、折り返して同じ道を今度は逆に走る。

正確な距離は分からないが大体往復で8kmくらいになるコースのようだ。

またしばらくゆるゆると走っていると後ろからヒタヒタと足音が迫ってきた。

私はそれなりにジョグに自信があるので抜かれるのは気分的に面白くない。

足音を振り払うように少しだけペースを上げる。

……まだ、ついてくる。

息を大きく吸ってさらにペースを上げる。

日本でジョグしているのとほぼ変わらないスピード。

…………しかしピタリと背中に貼りついたように足音が聞こえてくる。

間違いなく相手も私を意識している。

後ろを振り返るのも癪なので追跡者を想像で描く。

マッチョな白人のアメリカ人。

パリには商用でやってきて(飛行機もビジネスクラスだ)、商談の前に日課のジョグをしている。

現在の状況は前方をちんたら走っていたもやしみたいなジャップをさっさと抜かそうとしたら意外に粘られている。

『ちっ!このジャップが!
敗戦国の民族のクセによっ!!
オレ様にさっさと抜かれちまいな!』

と心の中で悪態を吐いている。

……ふむ、そこまで言われたら、漢として、ジョガーとして、黙っていられない。

いいだろう、日本代表としてこの勝負受けて立とう!

ペースをレースモードにギアチェンジ。

時速15kmくらい。

10kmを39分くらいで走れるスピードだ。

そこら辺のジョガーなら軽く千切れる。

しかし、相手もアメリカ代表。

背中に貼りついた足音はそのままだ。

このメリケン、やるな!

スパートのダッシュをかける体力はまだ残っているが、あくまで真摯にジョグで片をつけたい。

真っ向勝負だ、こい!

私は後ろを振り返らず淡々と走る。

相手も淡々とついてくる。

逃げる私、追うメリケン。

10分経過。

まだ決着がつかない。

TV中継していたらみんなきっと釘付けだろう。

道には観客が溢れ返り、声援が飛ぶだろう。

そう思ったらますます、負ける訳にはいかないだろ?

15分経過。

ジョグコースの終わりが近付いてきているが、まだ決着はつかない。

まったく、しつこい。

きっと相手もそう思っているだろうが。

しかしここまできたら負けたくない。

否、日本代表とし負ける訳にはいかない!

リズム良く交互に右と左の脚で固いアスファルトの地面を蹴る。

腕を振り、腰を回転させて、推力に変えて風を切る。

腹式呼吸で肺に酸素を送り、心臓をポンプする。

この世界では自分が走らない限り前に進まないし止まったとしても誰も助けてくれない。

だから私は走る。

ただ前へ前へ、と。

勝負は意外な形であっさりと決着がついた。

コースの終わり、仮想ゴール500前で突然、足音が止んだのだ。

すっ、とまるで足音だけではく、ジョガーの存在自体が消えてしまったかのように。

思わず振り向きたくなるのを堪えて私は走った。

左手を小さく、しかし強く、握り締めた。

そのまま私はジョグコースの終わりまで同じペースで走り続けて止まった。

私は勝ったのだ。

それは架空のアメリカなのか、それともそんなものを作り出した私自身なのかよく分からないが勝ったのだ。

俯いた額から滝のように流れ落ちる汗を掌で掬って路面に捨てる。

アスファルトに黒い染みがポツリポツリと落ちる。

勢いをつけて上を向き、空を仰ぐ。

今日もパリの空は青く、高い。


走り終わって部屋に帰り、汗でビショビショに濡れたランニングシャツを洗濯機に放り込みスタートのボタンを押してシャワーを浴びる。

シャワーから出たら今日の服をテキトーに選んで着て(T.rexのロックTシャツにラングラーの黒いプレストパンツ)、濡れた髪のまますぐ近くの常設市場へ。

いくつかの野菜と果物、魚介、パンを買って帰る。

そして、音楽をかけて、簡単な朝ごはんを作る。

流れているのは相対性理論の『ハイファイ新書』。

テレ東を口ずさみながらトマトを切って、ロメインレタスを千切って、ドレッシングをかける。

それからフライパンにオリーブオイルを引いて、ベーコンをカリカリになるまで焼いた目玉焼きを作る。

それにさっき買ってきたパンとオレンジジュースとイチゴ。

立派な朝ごはんだ。

それらをゆっくりと食べて、食べ終わったあとの食器を洗い、洗濯物を室内に干し、マリアージュフレールで買ってきたお茶を入れる。

水に波紋が広がるのを静かに見ているような胸に響く香り。

上質なお茶は人生を豊かにする。

そうやってぼんやりお茶を味わっていたらいつのまにか時計の針は12時を回っていた。

さて、今日は何をしようか。

美術館に行くのもいい、ショッピングも悪くない、

当てもなくフラフラと散歩するのも楽しいだろう。

冷め始めたお茶を啜りながらパリの地図をぼんやり見ながら考える。

まあ、急ぐことはない、のんびりいこうじゃないか。


7時過ぎ、ルーブル美術館と駅を繋ぐ地下街でたまたま見つけたLa Maison du Chocolatにて私はチョコレートケーキを買っている。

店員のちょっとクールなお兄さんが手際よく頼んだケーキを包装して笑顔と共に渡してくれた。

フランスの店員は閉店間際は愛想が良い(閉店時間が過ぎると途端に愛想が悪くなり平気で中にいる客を追い出すが)。

遠足が待ちきれない子供のような、浮き立つ感じすら伝わる。

私のぶら下げている紙袋を見て、

「お前のその袋、kitsuneだろ?いい買い物したな!」

なんて事も言ってくれるくらい機嫌がいい。

きっと彼はこの仕事が終わったらデートなのだろう。

夕ごはんを好きな女の子と食べる。

とても幸せなことだ。

「Merci,moi aussi.」

僕も笑顔を返して応える。

Au revoir.Bon journée!(さよなら、良い一日を!)」

店を出る。

人の笑顔は伝染するものだ。

さあ、帰ろう。


家のすぐ近くのスーパーでビールと水を大量に買ってそれを両手にぶら下げて自宅へと戻る。

ビールは大瓶6本、水は1.5lを3本、単純に計算しても8kgある。

箸とペン以外持ったことのない私のナイーブな細い腕では痙攣して腱鞘炎になりかねない重量である。

しかし、パリではビールを冷やして販売していないので常時冷蔵庫にストックしておく必要がある。

冷えたビールを呑むためなら腕の1本や2本惜しくない。

息も絶え絶えにアパルトマンの門を潜り、エレベーターで6階まで上がり廊下を進み、やっとのことで玄関まで辿り着いた。

カギを開けて荷物をキッチンまで運ぶ。

指を見るとビニール袋の取手の痕が赤くついている。

指の感覚が、ない。

マズい、折れたかもしれない!

早急にアルコール消毒しなければ!!

冷蔵庫からキンキンに冷えた瓶ビールを取り出して栓を開け、瓶から直接呑む。

口の中で金色の泡がシュワっと弾けて、喉がゴクゴクと小気味良い音を立てる。

ウマい。

最高にウマい。

クローネンバーグ1664はフランスの宝だと確信した瞬間である。

一気に飲み干し、やっと一心地つく。

窓を閉じていたシャッターを開けてコンポの電源を入れて音楽をかける。

Sadeの新譜。

メランコリックでどこかに置き忘れていたような懐かしいメロディ。

軽く息を吐いて、買ってきた温いビール瓶を冷蔵庫に放り込み、代わりに朝買ってきたサーモン、ムール貝、エビ、茄子とトマトとズッキーニ、それから冷えたビールをもう一本取り出す。

そういえば、指の赤みは引き、感覚も戻っている。

早めの治療が効いたようだ。

ビールは偉大である。

1人頷き、新しいビールを開けて今度はコップに移して呑み、料理に取りかかる。

キッチンに出しっぱなしにしてあったタマネギとニンニクを剥いて刻み、

オリーブオイルで炒める。

甘くて香ばしい匂いが部屋に広がる。

タマネギがキツネ色になったら水の張った鍋に移して火にかける。

エビの殻を剥き腸を取り除き、サーモンとムール貝と一緒に鍋に放り込む。

コトコトと煮込まれる鍋。

アクを取りビールを呑む私。

スピーカーから流れるSade

8時を廻ってもまだ高い空。

I will not run
I will not run
I will not run......

静かに緩やかに時間は通り過ぎていく。


気が付いたら3本目のビールを開けていた。

そろそろ仕上げにかかろう。

曲をPhoenixのお気に入りのアルバムに変える。

さあ、COUNTDOWN、だ。

野菜をざく切りにして、オリーブ入りのトマトソースと共に鍋へドボンと入れる。

しばらく中火で煮込んでコンソメと塩・胡椒、バジルで味を整える。

ブイヤベースの完成だ。

器によそって、朝買ってきて固くなったパンと一緒に食べる。

丸く小さくなったエビを噛むとぎゅっと音がして、熱い。

パンをスープに浸して食べる。

魚介と野菜のスープの旨みが口の中でじんわりと広がる。

窓の外では、街が赤く染まっている。

ああ、まるで。

Is Paris Burning?

私は4本目のビールを空けようとしている。

(続く)