巴里阿房旅行記5
私は片付いた部屋でビールを呑んでいる。
今日で旅も終わり。
リビング、キッチン、バスタブ、トイレの掃除を終えて、あとは大家の点検を待つばかり。
空になったビール瓶を指ではじく。
水滴が飛び散って、瓶が揺れる。
私はふぅと息を吐いて立ち上がり、冷蔵庫からもう一本ビールを取り出す。
まだ4本くらいストックがある。
少し余計に買いすぎたらしい。
まあ仕方がない。
昨日、突然熱を出して酒を一滴も呑めなかったせいで予想とズレてしまったのだ。
幸い、今朝にはなんとか熱は下がったが、昨晩はかなり高熱にうなされて寒気が止まらなかった。
ネガティブに逆回転する思考もあってこのまま死ぬのかとベッドの中でうすぼんやりと考えてしまった。
「ああ、私はパリで死ぬのか……
まだ童貞も捨てていないのにこのまま死に往くのか……
なんてことだ……
こんなことなら昨晩通りかかった歓楽街で娼婦でも買えばよかった……
あの時、娼婦のウィンクをすかした笑顔なんかでかわさなければ……!
クソ……!
……ええい、死んでたまるか!
そうだ、一発ヤるまで死ぬものか!!」
斯くして私は死の淵より蘇り、こうしてビールを呑んでいる。
童貞の生命力、侮るなかれ。
段々と見慣れ始めてきた窓のフレームから空を見る。
今日は珍しく雲がどんよりと太陽を覆っている。
まるで私の気分と同調しているようだ。
もちろん、ただの錯覚だが。
大家の点検を終えて、鍵を返し、始まりとは逆に駅までトランクを引く。
買い物した服やら酒が詰まって、行きよりも重くなったトランクのタイヤが石畳を叩いてゴツゴツと重々しい音を立てる。
一週間お世話になった常設市場の横をすり抜けて空港まで直通電車がある北駅へと向かって歩く。
駅舎が近づくにつれて私と同じようにトランクを引いたり大きなリュックを背負った旅行者たちが増えてくる。
厚い曇り空の切れ間から光が刺して駅舎に立てられたトリコロールの旗を照らす。
まるで寂しく微笑かんで別れの挨拶を交わすように旗が揺れる。
私も同じように微笑んで別れの挨拶を送る。
さよなら、パリ。
空港で飛行機の搭乗を待ちながら私は缶ビールを呑んでいる。
飛行機に乗ってしまえば12時間後には成田に到着するだろう(無論、落ちなければだが)。
旅の終わりの感傷に浸りながら呑むビールはほろ苦い。
一週間程度の短い時間だったが私はこの旅で少しは変わっただろうか。
変わったような気もするし変わっていないような気もする。
でも、パリに来るまであった
うんざりした気持ちは少し軽くなった、と思う。
理由はよく分からない。
ただ居住する地点から遠く離れた場所にいても私は私なのだと確信できた瞬間、気持ちがほどけてふっと軽くなったのだ。
いつもとは言語も文化も違うスペースで料理を作り、走り、酒を呑み、映画を観て、街を歩き回ることで、私の内部でもつれていたものがゆっくりと弛んでゆくのを感じた。
短期間で上手くその効果をあげられたのはパリが私にとって特別な街だからこそだろう。
ありがとう、パリ。
ビールを頭と同じ高さまで上げてから口元へ運ぶ。
冷たさと炭酸が心地よい。
そう、実際少し距離を置かないと見えないものや分からないことも結構あるのだ。
もう少しいればもっと様々なものが見えたり分かったりしたのかもしれないが、我が儘を言うのはとりあえず止めておこう。
来ようと思えばいつでも来れるのだから。
そう思える限り、旅は永遠に続くのだ。
東京経由での乗り継ぎ。
次の目的地は未定だからまた長い滞在になりそうだ。
搭乗案内のアナウンスが聞こえる。
私は立ち上がる。
まだまだ、旅の途中だ。
そうオレ達の旅はまだ始まったばかりだ!
(第一部完)