rainny go-round

2月最終週の東京の街。

傘を射して、スターバックスの珈琲を啜る私。

昨夜は久しぶりに呑み過ぎた。 

宿酔いと云うほどではないにしても身体が重い。

左手に巻いた時計を覗く。

もうすぐ3時を回ろうとしている。

竹橋から九段下までの高速の高架下。

冬のせいなのか天気のせいなのか景色は寒々しい。

そういえば私は10年前もこの辺りを歩いていた。

当時、新卒で入った会社を一年足らずで辞めて、学生時代にアルバイトしていた新聞社へ戻って、展覧会の設営準備などを手伝っていた。

なんの展望も希望もなく転がり込んだ先でなんとか契約社員で雇ってもらい、今はスポーツ誌の記者をしているのだから巡り合わせとは不思議なものだ。

あの頃から今に至る年月の間で色々なものが変わった。

5年後には東京でオリンピックが開催されるなんて10年前は誰が予想できたであろう。

震災で原発メルトダウンするなんてヘタなSF小説のようだ。

そういった外的な環境だけでなく私自身も色々と変わった。

仕事や価値観、思考と嗜好、そして大切な人も。

しかし変わらないことも色々とある。

好きな本や音楽、服装のセンス、女性の好み、何に対して怒りを感じるのかなど…むしろ変わらないことの方が多いくらいだ。

人間は、14歳でも24歳でも34歳でも芯の部分はほとんど変わらないものだなと最近つとに感じる。

そういえば、今身に付けている機械式の腕時計もカシミヤのストールも当時から愛用していたものだ。

私は昔から上質でシンプルなものが好きだし、物はできる限り長く使い続けたい。

そういった嗜好も変わっていない。

 

昨晩、私は外にいるのに珍しく独りで酒を呑んでいた。

1週間前に死んだ友人のことを考えていたら無性にアルコールが欲しくなったのだ。

誰とも話したくなかった。

けれど自宅で呑む気分にはなれなかった。

なんとなく目についた神保町の裏路地にある小さなイタリアンに入ってタパスと白ワインのボトルを頼んで独りで呑んだ。

結局、一人でボトルを2本空けて、へべれけになって家に帰り、今に至る。

珈琲は温かくて苦い。

 

人とは高校生のときに部活で出会った。

陸上部で二人とも長距離をやっていた。

部活動に熱心な高校ではなかったので、趣味程度の気持ちで走る部員が多数を占めるなか、友人だけは人一倍陸上に対して真摯に取り組んでいた。

才能もあったのでめきめきと頭角を現し、都大会でも好成績を納め、スポーツ推薦で駅伝の強い某有名私大へ入学した。

私はといえば、才能もなければ、勤勉さも持ち合わせていなかったので、ダラダラと走り、ダラダラとサボり、もちろん陸上では結果を残すことはできず、一浪してスポーツとは無縁の某私大に滑り込んだ。

まったく正反対の性格と生き方が良い方向に働いたのか友人とは高校を卒業してもたまに珈琲を呑んで下らない話をする気のおけない仲だった。

私はその頃にはかなりのハードドランカーになっていたが、友人は駅伝選手になるため節制してアルコールを呑まなかったので、彼と会うときはいつも珈琲だった。

3年のとき、彼が初めて箱根で走ることになったときは現地まで応援にも行った。

汗と生気でキラキラと輝きながら駆け抜けていく友人を見て、私はとても誇らしい気持ちになったのを覚えている。

4年では花の4区を走り、卒業して某一流企業の実業団に入り、陸上のエリート街道を邁進していく友人。

私はといえば、なんとか大学を卒業して、やっとこさ入った会社を1年で辞めて、タラタラと生きていた。

その頃の私にはなんの展望もなかった。

本が好きだったのでなんとなくモノを書く仕事に就ければいいなあと考えながら酒と映画とセックスに溺れていた。

四畳半の饐えた臭いの部屋、ゴダールの訳の分からない映画、ドストエフスキーハナマサの安ワイン、精液で汚れたベッドシーツ。

私の中心は未だそこにある。

順風満帆に見えた友人の人生だったが、社会人2年目に右膝を故障し、北京オリンピックの選考レースをすべて辞退した辺りから陰りが見え始めた。

それでも、懸命な治療とリハビリで次のオリンピックを目指していたのだがーーー2度目のトラブル。

今度はアキレス腱の怪我でアスリートとしては致命傷だった。

友人が引退を決めた夜、私たちは初めて杯を交わした。

「オレはもうダメかもしれない」

友人の呟きに私は何も応えなかった。

仕事上、様々なトラブルで表舞台から去っていくアスリートを見てきた私でも、青春全てを賭けて積み上げてきたものが崩れ落ちてしまった10年来の友人にかけるべき相応しい言葉なんて何処にも持ち合わせていなかった。

私は黙ってビールを呑みながら彼が大学駅伝で沿道を走り抜けていくシーンを頭のなかでリプレイしていた。

キラキラと輝く彼の後ろ姿があっという間に遠くへ、小さくなっていく。

その瞬間を何度も。

 

友人は選手を引退した後、仕事を辞めて叔父が住む福岡の運送会社に転職した。

東京を離れる前日、私たちは二度目の杯を重ね、いつも通りどうでもよい話をして別れた。

それが私と友人にとって、最後の夜になるなんてその時は想像もできなかった。

会話の内容なんてほとんど思い出せないが私たちは二人とも競走馬が好きだったので2日後に行われるダービーの予想をしていたのだけは覚えている。

過去最高のメンバーが揃ったと云われた2010年のダービーで彼が強く推していたエイシンフラッシュが先頭でゴールを駆け抜けて、私の馬券も的中したのだから忘れようがない。

なにより直線力強く抜け出したその姿は友人のアスリート時代を彷彿とさせて、私はとてもうれしかったのだ。

 

あれから4年ー。

震災が起きてこの国は東と西に大きく分断された。

私は仕事をこなしがら東京でなんとかサバイヴしていた。

4年間の人生で、何百の本を読み、何百の音楽を聴き、何人かの女の子と寝たけれど、私の中心は結局薄汚れた四畳半の部屋のままで。

そういう色々なことに辟易としていた月曜日の朝に私は友人の死を共通の友人のFacebookで知った。

その時、私は彼の死そのものよりもこの4年間に私の周りで起きた様々なことを想った。

出会った人々や去っていった人々、失った多くのものと手に入れた僅かなもの。

そういうことを想って、少し悲しくなった。

 

2月最終週の東京の街。

傘を射して、スターバックスの珈琲を啜る私。

私は歩きながら彼が大学駅伝で沿道を走り抜けていくシーンを頭のなかでリプレイしている。

キラキラと輝く彼の後ろ姿があっという間に遠くへ、小さくなっていく。

その瞬間を何度も。 

 

 

後藤浩輝騎手と私の叔父に捧げてー